備中高松城を訪ねる
織田信長の命を受け羽柴秀吉は、3万の大軍をもって備中高松城を攻撃。
高松城主の清水宗治に降伏するように勧めたが応じなかった。
高松城は深田や沼沢の中に囲まれた平城で水面との比高がわずかに4mしかなく、要害の城であった。
秀吉は参謀・黒田官兵衛の献策に戦史にも稀な水攻めを断行し、兵糧攻めにした。
秀吉は、約3kmにおよぶ堤もわずか12日間で完成させた。
時あたかも梅雨の頃で、増水した足守川の水を流し込み、188haの大湖水ができ城は孤立した。
 6月2日の未明、京都本能寺で信長は明智光秀に討たれた。
秀吉はこれをかたく秘めて「今日中に和を結べば毛利から領土はとらない。宗治の首級だけで城兵の命は助ける」という条件で宗治を説かした。
宗治は「主家(毛利氏)の安泰と部下5千の命が助かるなら明日4日切腹する」と自刃した。


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備中高松城です。秀吉が水責めしたお城。お城の廻りは水田。
二の丸から本丸を望む
意外と大きな城である。
城主清水宗春の首塚。
城内の兵士を助けるため、切腹して果てた。
本丸を望む
清水宗春の墓
辞世の句
「浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の
名を高松の苔に残して」