徳川信康の史跡を訪ねる

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2010年12月師走に入って我が自宅からマイカーにて、戦国の悲劇の男、徳川信康の史跡を訪ねた。ご存知のとおり、信康は家康と今川義元の娘築山御前との間に生まれた嫡男であったが、信康が武田方に内通しているとの噂が織田信長に入り、切腹を命じられる。わずか21歳で自害した。自害して果てた二俣城とお墓がある清龍寺を訪ねた。


二俣城の入り口、ここを進むと、何故か突然二俣城の説明にガイドが流れてきた。永禄11年(1568)から天正3年(1575)まで7年間、徳川と武田の攻防の舞台となった。
標高90mの台地に築かれ、北側から北曲輪・本丸・二之曲輪・蔵屋敷・南曲輪がほぼ一直線に配置されている。、さらに進むと土塁のがある。
天守台のある本丸広場には、いま真っ盛りの紅葉がきれい。
二俣城の天守台です。本丸の南側は二之曲輪と枡形門跡がある。
戦国時代の石垣は野面積みの石垣。
本丸は結構ひろいスペース、ここに屋敷があったのだろうか。ここで信康も自害したのかな。
楓の葉っぱが異常に赤いのがある。これはひょっとすると信康公の自害したときの血の色のよう見える。
グラデーションがすばらしい。思わずシャッターを切った。
見返りの松です。
城から清龍寺に向いました。お寺の入り口に井戸櫓がありました。
二俣城にあった井戸櫓を昭和37年に再建したものです。昔、武田と徳川との戦いのときに、武田軍が徳川の城兵が天竜川の岸に櫓をつくり、滑車に縄をかける釣瓶で水をくんでいることを探知し、水の手を奪う戦法にでた。寄せ手は釣瓶縄を筏を流して切断し落城させた。
清龍寺の山門。京都知恩院の末寺、本尊は阿弥陀如来。
徳川家康公お手植えの蜜柑の分木と書いてあったがーーーーーー。
芭蕉の弟子其角(晋子)の句碑
「打つ櫂に鱸はねたりふちの色」
本堂の前にある梵鐘。ホンダの創始者本田宗一郎氏が二俣尋常高等小学校時代に、正午を知らせる鐘を30分前に突き、まんまと弁当を早くたべたと言われていると説明板に書いてありました。
本堂です。
本堂正面の屋根の瓦に葵の御紋がありました。
信康廟に向う石の階段。階段をあがったところに信康公のお墓がある。天正7年(1579)9月15日、二俣城にて生害。(時に21歳)。家康は天正9年に清水の湧き出るのを見て、寺名を清龍寺と名づけ、信康に清龍殿とおくり名をした。
信康廟には信康公の他に殉死した吉良於初、当時の二俣城主大久保忠世、三方が原の合戦で討ち死にした中根正照、青木吉継の墓があります。
正面に見えるのが信康廟です。これより中には入れません。
見事に紅葉しています。
清龍の滝。家康もこの滝を見てお寺の名前に滝の名を付けたといわれている。