南伊勢 五箇篠山城と周辺散策
2016年9月18日 東海古城研究会主催の企画に参加。
五箇篠山城の登り口。伊瀬道勢和多気ICから20分程度。 標高140メートル。 比高さ約70メートルの完全な独立丘陵上にある。 古くは五箇氏という土豪がいたとされ室町時代に 北畠氏の被官として五箇篠山城に入った。 文明年間には北畠氏に叛いて滅亡した。 |
|
主廓の土塁 | |
城の頂上からの眺め。 | |
大きな掘割、土塁 | |
堀切跡。戦国期、信長が本能寺で討たれると、 備後の国に逃亡していた北畠具親は伊勢の国に戻り、 大河内城に火をかけた後、五箇篠山城に入った。 その後侭田信雄に包囲され落城。その後廃城となる。 |
|
丹生大師神宮寺。女人高野と呼ばれている。 宝亀5年(774年)弘法大師の師である勤操大師が開山。 弘仁6年(815年)に弘法大師が七堂伽藍を完備。 その後2度の兵火で焼失したが、慶長年間(1596年ー1615年)、 貞享年間(1684年ー1688年)に再建された。 |
|
石段の左側に長い回廊となっており裸足で上ることができる。 | |
丹生には水銀鉱の跡があり、 水銀の産出地として古くから栄えていた。 奈良の東大寺の大仏の塗金材に使われていた。 |
|
長原城(大崎玄蕃守城)の跡。 今から420年ほど前、郷士大崎玄蕃はこの地に守閣を構え 20年余居城した。玄蕃はこの地をこよなく愛し、慈政の中にも 賞罰は厳しく、旧弊を改め,さらに長原池造成の大事業を成し遂げ 治水の万全を図り生業発展と民生安定に大なる治績を収めた。 |
|
長原城の全貌 | |
北畠具教が元亀3年(1572年)にこの三瀬の地に館を構え、 大河内城を信雄(信長の次男)に与えてここに移り住んだ。 信長の指示による刺客に暗殺されるまで4年間の居館で 三瀬御所と言われた。 |
|
土塁跡。 | |
三瀬館の中心地。 階段状に後方が階段状に3段階に石段が組まれている。 相当大きな居館。 |
|
三瀬館の石碑。敷地はかなり広い。 | |
敷地内は木が茂っており当時の面影は想像しがたい。 | |
かろうじて土塁らしき構造物が見て取れる。 | |
居屋敷に上がる石組階段らしきものがあった。 |