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本能寺は、当初は「本応寺」という寺号で、室町時代の1415年、日隆よって創建された。本能寺は、早くから種子島に布教していたことから、鉄砲・火薬の入手につき
戦国大名との関係が深かった。織田信長はこの寺を上洛中の宿所としていたが、1582年6月2日、ここで信長が明智光秀の軍勢に包囲され自刃する事件が起き、
(いわゆる本能寺の変)その際、堂宇を焼失した。
旧地の元本能寺南町には京都市立本能小学校があったが、1992年に廃校となり、その後発掘調査が行われた。それにより、織田信長の定宿だった当時の遺構が発見されて話題を呼んだ。現在は京都市立堀川高等学校本能学舎と京都市本能特別養護ルームの施設となっている。
2007年のマンション建設に伴う遺構調査では、本能寺の変において焼けたと思われる瓦や、「能」の旁が「去」となる異体字がデザインされた丸瓦が、堀跡のヘドロの中から見つかっている。
発掘調査の結果、当初は120m四方の敷地があったと考えられていたが、築地や石垣、水堀が約40m以上さきからは確認されていないので本能寺の「建物は最大40メートル四方クラス」の小さな施設であったらしい。
本能寺の「能」の字は右側の2つの「ヒ」が「去」のような字に替えられている。これは本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれている。