武田、徳川軍遠州攻防地を巡る                                TOPPAGEへ


2010年8月猛暑の中、武田、徳川軍が遠州で城とりの攻防史跡を巡る。掛川城、高天神城、浜松城、築山御前の関連史跡を訪ねた


掛川城大手門です。城主の山内一豊が設けたものを当時の姿に復元したもの。楼門造りの櫓門で間口12.2メートル、奥行き5.4メートル、棟までの高さ11.6メートルあり立派な門です。
ここで掛川城の歴史を少々紹介します。
現在の城より東500メートルにあった掛川古城は駿河の守護大名今川義忠が支配していた。桶狭間の合戦で今川義元が信長に倒されると、徳川家康に攻められ開場する。家康領有後重臣石川家成が入場し甲斐武田氏侵攻の防御の拠点となった。天正18年全国平定した豊臣秀吉は家康を関東に移封し、秀吉配下の山内一豊を入場させた。このとき初めて天守閣をつくった。江戸時代には徳川親藩の松平氏や江戸城を築いた大田道灌の子孫太田氏など11家26代の居城として栄えた
大手門を入ってすぐに番所があります。
天下の名城といわれた掛川城です。安政の東海大地震により倒壊しましたが、平成6年140年ぶりに木造により再建された。この天守閣は外観3層、内部4階からなり、東西に張出し部を設けたり、入り口に付櫓を設けたり外観を大きく複雑に見せている。1階、2階に比べ4階の望楼部が極端に小さいのは、殿舎の上に物見のための望楼を載せた出現期の天守閣のなごり。
太鼓櫓
掛川城御殿の全景です。二の丸に建てられた江戸後期の建物で、現存する城郭御殿としては、京都二条城など全国でも4箇所しかない貴重な建築物。
天守閣を下から見上げたところ。白の漆喰が美しい。
これは天守台の張出し部に設けられ、石を落としたり、槍を突き出したりして、敵の侵入を攻撃した。
天守台を支える石垣。見事なもの。
側面から天守閣をみた。
掛川御殿は7棟よりなる書院造りで、部屋はそれぞれの用途に応じ約20部屋に分かれている。
御所院上の間で、城主の対面所です。
御殿の内部
藩主の居間として使われた長囲炉裏の間の天井に太田家の正門の桔梗門と替紋の鏑矢紋が彫ってある。
高天神城について少々説明します。
ここは武田方と徳川方と激しい攻防戦が行われた場所です。

戦国の時代には今川氏が支配したが、桶狭間の合戦後、1564年(永禄7年)に徳川方の城となり、小笠原長忠が城主になっています。

その後、武田信玄・勝頼父子と徳川家康との間で争奪戦が繰り広げられました。最後は、長篠・設楽原の戦いで徳川方が勝利すると1580年(天正8年)に家康は高天神城を攻め、守将・岡部真幸は10ヶ月に亘る籠城戦を戦いますが勝頼は援軍を送れず、飢餓状態となった籠城軍は、1581年(天正9年)3月22日、城外に総攻撃を仕掛け、全滅しました。
高天神城跡の石碑。ここから山を登って20分程度で本丸に着きます。
搦手門跡
かなりの急な勾配の階段が続いています。
途中に三日月の形をした井戸が残されていました。いまでも少しづつ涌いているそうです。
的場曲輪跡
徳川方の家臣大河内政局が武田方に投降しなかったので石牢に閉じ込められたところ。詳しくは小説徳川家康第6巻をお読みください。
土塁跡です。当時の様子がかなり残されています。
松幹化石と標識にありましたが、何のことやらわかりません。
備前曲輪跡
本丸跡
武田軍が攻撃した際、戦死した本間氏清とその弟丸尾義清の墓
堂尾曲輪跡
空堀跡
空堀跡が当時のままよく残されています。
堀切跡
高天神城の遠景
浜松城の本丸へと続く道。
ここで浜松城について紹介します。
「徳川家康が29歳から45歳頃、今川、武田、織田など戦国の世に名を上げた、周辺諸国の名家、強大な戦国大名に囲まれ、生き延びて、天下盗りのの夢をつかんだ場所が浜松城です」と案内パンフにありました。
浜松城の
浜松城天守閣です。この城の石垣は、自然石を上下に組み合わせて積み上げる野面積みです。江戸初期まではよくこの方法が用いられ、現存する石垣としては、彦根城,竹田城、安土城にも用いられている。
ここから見るお城の風景が一番
野面積みの石垣を拡大したところ。
大きな石があったので思わずパチリ。
今にもくずれそうな石垣に見えるがこれで400年の風雪に耐えてきた。
ご存知徳川家康の銅像
築山御前の廟西来院です。天正7年(1579)8月29日。徳川家康の正妻築山殿(瀬名姫)が家康の命令により、 殺害されました。またこれに続いて9月15日には築山殿と家康の間の長男信康 も切腹を命じられました。
築山御前の廟前にある月窟廟の碑
築山殿はもともと今川義元の妹の娘です。二人はまだ家康が今川家の人質であ った時代の弘治3年(1557)に結婚し、3年後に信康が生まれました。時代は激動 し今川は織田に桶狭間で倒され、いつしか今川に縁のある築山殿は家康と別居。 信康は信長の娘の徳姫と結婚します。築山殿としてはこの処遇が面白くなく、 甲斐の武田と内通して夫の家康を倒しわが子信康をたてて徳姫を排除、武田と 連合で仇敵織田を倒さんと図りました。 ここでその動きを察知した徳姫はわが父信長に十二ヶ条の書状を書き、ちょう ど信長に会いに行く予定のあった酒井忠次に託して届けさせます。その書状を 読んだ信長は激怒し、家康に、築山殿だけでなく、その子である信康も殺害す るよう酒井を通して命じました。織田に逆らうことのできない家康は泣く泣く 腹心の家臣に二人の殺害を命じます
築山御前の墓です。築山殿の元には野中重政ら3人を派遣しました。野中らは築山殿に家康殿 がお会いしたいと言っているので来て下さいといって連れだし、舟で佐鳴湖を 渡っていた時に野中が突然後ろから「殿の命によりお命頂戴致します」と言っ て斬り殺しました。
築山御前の墓の拡大
ここで築山御前が切り殺されたところです。
築山御前を切り殺した後に、刀を洗った池の跡です。現在池はありません。

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