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永禄4年(1561)近江の浅井氏庶族の浅井新八郎(政高)により築城されたといわれている。
新八郎の死後、その子長時が後を嗣ぎ、本能寺で織田信忠が討死すると、織田信雄に仕え、家老の一人となった。
秀吉に内通したと疑われ、信雄と不和となる。天正12(1584)年、信雄から和解の為、同じく信雄と不和になった家老とともに長島城に呼出され、三家老共に討たれた。
信雄は、長時を討った、森久三郎を城主とした。 小牧・長久手の戦いでは、信雄・家康軍の城として、尾張西部において重要な役割を負ったといわれる。(ウィキペディアより)
当時の面影は何も残っていない。石柱があるのみ。 | |
城跡が現在苅安賀自動車学校になっている。 記録では東西42間(76m)、南北32間(58m) の規模で内外二重堀の平城であった。 |