2010年11月19日、春日井市文化財ボランティア養成講座の一環で、春日井市勝川駅から鳥居松までを歩いた。
下街道は古くから善光寺街道とも呼ばれ、名古屋から信州や飛騨へ通じる便利な道として多くの旅人に利用されてきた。名古屋城下札の辻から中山道今宿追分まで13里20丁(約54キロ)。
勝川駅前からスタート。勝川駅は明治33年に開業、平成12年に 開業100周年を迎えた。当時プラットホームの土台になったイギ リス積「赤煉瓦」は駅前広場に移転し保存されている。 |
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勝川大弘法です。昭和3年山口氏が私財を投入して建立。高さ18メートルあります。大弘法とは大きな姿をした弘法という意味です。 | |
昔は街道を行く旅人の飯を提供していためし屋「水徳」。 | |
街道沿いに残る昔の農家。この農家は萱拭き屋根になっているが、このあたりの農家は麦からの屋根が多かった。 | |
八幡社です。寛文11年1671年に下条本郷より遷座した神社。柏井荘の総鎮守であった。 | |
本殿です。八幡社は全国で一番多い | |
神社境内にある忠魂碑、春日井では一番大きい。 | |
昔の街道 | |
木曽川の水を名古屋市の水として使うための水路。地下に鉄管が埋まっている。ここから犬山まで自転車で行ける。千本桜があります。 | |
庚申寺です。西国33観音、街道沿いにあったお地蔵さんがここに集められている。 | |
庚申寺の左手にある観音堂です。お地蔵さんが集まっている。 | |
慈眼寺の山門が見える。 | |
桂林寺です。臨済宗妙心寺派です。尾張藩の家老、竹腰山城守の知行地であったことで手厚く保護した。桂林の名はこの地に大小の桂の樹が繁茂していてこれを堂宇建設の用材としたことによると伝えられている。江戸時代末には寺子屋となった。 | |
桂林寺の境内、ここには竹腰家の位牌がある。 | |
慈眼寺です。黄檗宗独特の門。春日井市内では黄檗宗の寺はここだけ。江戸時代中国から隠元さんが日本に伝えた。尾張藩三代光友が手厚く保護した。 | |
ここには市文化財として、越伝道付像(尾張藩の招きでこの地に黄檗宗を開山した人)、木造の聖観世音菩薩坐像がある。天明年間に尾張藩の招きで細井平州はこの寺で15000人に藩政改革を説いたと言われている。 | |
鳥居病院です。内津村の鳥居良庵が幕末にこの地に移転した。西洋医術を取り入れこの地の医療の中心になっていた。 | |
林金兵衛の別宅であったところ、金兵衛さんが衆議院議員のときにクラブとして使われていた。 | |
油茂商店です。近世末期に開業した油屋です。 | |
蔦屋です。江戸時代から続いている商家で、酢の醸造や製油などを行っていた。大正時代は、酒、米、麦や肥料などを売っていた。 | |
屋根の上に猫の置物がめずらしい。 | |
柄元商店です。近世より鋤鍬を扱う店。 | |
柄元商店の社長の弟さん、お店の歴史を解説いただきました。 | |
お天王さんにある常夜灯。堂には、天王社、熱田社、秋葉社が祀られている。常夜灯が一対あり、これは文久二年と刻まれている。 | |
観音堂です。馬頭観音の石像と33体の仏像を浮き彫りにした石碑がある。その両側に5体の地蔵が並べられ祀られている。 | |
お堂の左に「飯田重蔵碑」が建っている。この付近を上鳥居松といい、昭和の始めごろから商店街が進出し、当地域の中心地。 | |
飯田重蔵家の離れ座敷として安政3年(1856)に建てられた。もとは名古屋で造り酒屋。明治13年6月明治天皇がご巡幸のとき御小休所となった。その後商工会議所や銀行になって、昭和48年に市制30周年を記念して、市立郷土館となっている。 | |
郷土館の玄関 | |
郷土館の庭に道標がある。 | |
道標です。 | |
道標です。 | |
道標です。 | |
道標です。 | |
明治天皇がここでお休みになった場所を示す看板。 | |
看板の裏に裏書がある。 | |
昔なつかしい蓄音機です。手動式です。毎週土曜日に |