川 手 城       TOPPAGEへ     前に戻る

美濃源氏の一族の土岐氏の第3代守護職土岐頼康は、手狭となった長森城に代わり、1353年に築城する。以降第11代土岐頼芸までの本拠地となる。
城郭といっても、広大な敷地に神社、仏閣を設置し、本殿は御殿風の建物であった。戦う城でなく、住居としての城である。
応仁の乱により都から逃げ延びた公家らが、当時の守護職で力のあった土岐氏を頼り、川手に移住。これにより川手の地は都文化の花を咲かせることになる。
当時その繁栄はかなりのものであり、西の山口(大内氏)東の川手と言われた。しかし1494年、土岐氏の相続争いを発端とする船田の乱により、城は焼失する。
後に再建されるが、1530年、土岐氏を追放した斎藤道三が稲葉山城に拠点を移した事により廃城となる。
廃城後も斎藤道三等の加護で繁栄し、当時来日した宣教師がその繁栄振りを書き残している。しかし、織田信長の時代には川手の町は殆ど岐阜に移り衰退した。
廃城後も土塁等が残っていたが、徳川家康の命により加納城の築城が開始されると、土塁の土は殆どが使われてしまった。


川手城の一部しか残っていない。
城跡の大半は女子高の敷地になっている。
城跡あとに建つ女子高
川手城跡の石碑