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朝倉氏の滅亡後、一向一揆を平定した功績によって、越前国北ノ庄を与えられた柴田勝家が、
天正3年(1575年)に自らの縄張りによって築城を開始する。同11年の賎ヶ岳の戦いで勝家が敗れ、
妻お市と共に自害し、建造物のほぼ全てが焼失する。1601年に北ノ庄城の跡地に、新たに結城氏
によって北ノ庄城が築城されたため、現在では柴田氏の遺構を見ることは出来ない。
平成5年から6度にわたるの発掘調査の結果、本丸の推定位置である柴田神社の地下から、
石垣の跡と思われる石が出土したが、本丸の正確な位置を完全に特定するまでには至っていない。
城は足羽川と吉野川(のちの百間堀)が合流した位置に築かれ、堀の一部に足羽川を使用していた
と推定されており、天守は7層(一説には9層)構造で、安土城に匹敵する巨城であったと伝えられている。