三河一向一揆の史跡 上宮寺、勝曼寺、本証寺TOPPAGEへ    

1563年(永禄6)に勃発した。15世紀後半、矢作川周辺には本願寺派が、上宮寺・勝鬘寺・本証寺の有力寺院を中心に教団を形成し寺内町を建設した。
一方、1560年の桶狭間合戦後、岡崎帰城を果たした松平元康は、三河の領国化政策を進めたが、農民や寺院への過酷な収奪となって現れ、その過程
で三ヶ寺のもっていた不入特権が侵害されたため、領国内の反対派の国人・土豪、農民、一向門徒が蜂起した。また松平家臣団も分裂して一揆に加わり
松平氏とっては大きな危機であった。しかし、松平氏は苦戦のすえ、一揆勢力の不統一もあってようやく勝利を得、その後松平氏は本願寺派寺院を破却し
その禁制を行った。また家臣団を貫高制などで再編成し、一揆以前に比べ、より強固な領国支配体制を構築に成功した。
また本願寺派にとっては、1583年(天正11)の赦免、復興まで、以後20年間の沈黙を余儀なくされた。 (
日本百科大全書より)

上宮寺です。一揆側の拠点になっていた。

上宮寺の鐘楼です。220年前に建てられたもの
家康側と本願寺門人側との和解に骨折った家康近臣
石川日向守家成の母(妙春尼)の墓。彼女は家康の
生母於大の方と姉妹であった関係で家康との和議を進めた。
たもの木です。
勝曼寺です。
本証寺
一見すると城の櫓を思わせる
本証寺の本堂です。