守山城を訪ねる

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平山城で、規模は東西に約58メートル、南北に約51メートル、四方には堀がめぐらせてあったと言われる。
1521年、今川氏豊が那古野城を築いた際に、小幡城・川村城に対応して松平信定が築城した。
1526年(大永6年)、連歌師宗長が館で松平信定新知行祝の千句連歌会を催し、
「花にけふ風を関守山路哉」と守山を詠んだ発句が宗長手記・下巻に記されておりこれが「もりやま」が「守山」と記された初見である。
1535年(天文4年)には職田信秀の弟信光の館となっていたが、信光の内応により松平清康が着陣した際、世に言う「守山崩れ」が起こる。

城跡とされる丘には松平清康のために建立された宝勝寺の山門
宝勝時の境内。ここが守山城の城跡。
宝勝寺へと続く石段。丘の上が城跡。
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堀跡か
城跡
堀跡
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