長篠城を巡る戦いは「長篠城の攻防」と後の「設楽原の決戦」に分けられます。現地の設楽原をまもる会の説明を基に少々説明します。
長篠城は信州から三河の平地に出るところにあり、京都を望むために重要な拠点となる城であった。天正3年5月に武田勝頼は15000の
大軍を率いて長篠城を取り囲む。一方奥平貞昌以下500の城兵はよく戦い防いだが、限界があり、救援の使者として鳥居強右衛門を岡崎に向かわせた。徳川家康は、織田の助けを借りて設楽原に出陣し、長篠城を救援することになった。
長篠城本丸跡。 | |
本丸の一方に土塁が築かれており本丸土塁の跡。当時の雰囲気が残されている。 | |
巴城郭跡 | |
これが有名な?さかさ桑の木です。 | |
長篠城の堀です。相当に深い。 | |
本丸跡です。ここでは毎年5月に長篠合戦のぼり祭りが開催され、火縄銃の実演が行われます。 | |
本丸土塁跡に大きな木(名前は不明)。 | |
本丸跡から見える滝です。 | |
鳥居強右衛門が磔になった場所を本丸から見てますが、木が邪魔してよく判りません。 | |
JR飯田線の向こう側に」郭の跡が見えます。 | |
鳶ヶ巣砦あとです。武田軍の陣地跡です。 |
設楽原に到着した織田・徳川連合軍約38000は連吾川に陣をしき、馬防柵をつくり、武田軍15000の軍は一部を長篠城監視に残し、大部分を設楽原に出陣した。天下無敵の騎馬軍団の武田軍ですが、織田徳川軍の鉄砲隊3000挺の鉄砲の前にやむなく敗退する。一日の攻防で、武田軍10000、連合軍6000が10時間足らずの戦闘で失われた。武田軍、連合軍の死者を弔うために村人は慰霊の丘として信玄塚を作った。毎年お盆に行われる「火おんどり」は死者を供養する火祭りで、430余年も連綿と受け伝えられている。
武田勝頼軍を向かえ討つ織田軍の馬防柵です。 | |
馬防柵に近づいてみました。 | |
柵工事に使用した材木は岐阜からはるばる運んだといわれている。 | |
設楽原合戦の主戦場です。 | |
武田軍の山県三郎戦死の地 | |
山県三郎兵衛とその一族の墓と供養搭 | |
山県三郎兵衛の碑 | |
山県三郎兵衛の墓の横に置かれたいろはかるた | |
多くの戦死者を手厚く葬った大塚 | |
信玄塚です。戦場でなくなった兵士を弔った。 | |
珍しい石の閻魔像です。 | |
武田軍の武将 馬場美濃の守が出陣の時、この木のふもとから湧き出ている水を仲間とともに杯に汲んで出陣したと伝えられている | |
医王寺の奥、天神砦へいく上り口 | |
医王寺の山門 | |
医王寺の本堂 | |
本堂の境内に立派なくろがねもちの木があった。 | |
本堂の中を覗くと丸根五枚笹の紋、あれ我が家と同じ紋があった。 | |
天神砦へと続くのぼり道 | |
頂上に、物見台が復元されていました。 | |
医王寺にもどりもう一方の山道を10分程登っていきますと勝頼本陣跡にでます。 | |
ここが勝頼が陣を敷いたところです。 | |
勝頼本陣跡を医王寺からみたところ |