今川、織田の戦い、桶狭間の合戦場を訪ねる

  2010年8月29日 猛暑の中、今川、織田の戦い、有名な桶狭間の合戦の場所を訪ねた。最初の織田方の砦跡の鷲津砦、丸根砦を訪ね、そのすぐ近くにある、今川方の居城の大高城跡、沓掛城跡を訪ね、最後に合戦場になった桶狭間を訪ねた。桶狭間古戦場は現在2箇所存在しており、義元が討ち死にした場所も2箇所あり、早期に真相究明が期待される。
最後の感想ひとつ。これだけ歴史上有名な戦いの場所にもかかわらず現地には駐車場もない。現場が市街地なので土地がないのがわかるがなんとか早急に解決してもらいたいもの。参考になるのが長野市の信玄と謙信が戦った川中島の戦いの八幡原古戦場には大きな駐車場があり、駐車場の案内も大きく見やすい。


大高城の北東700メートルの丘陵に築かれた砦、信長が義元の尾張侵攻に備えて永禄2年に造られた。規模は東西25メートル、南北27メートルあった。
永禄3年(1560年)5月19日桶狭間の戦いの緒戦に、飯尾定宗らが立てこもり今川の重臣朝比奈泰能の軍勢に攻められ全滅した。
砦の内部、当時の面影は何も残されていない。
鷲津砦と同じ頃に信長により造られた砦。桶狭間の合戦時、大高城に兵糧を搬入した松平元康(徳川家康)が、織田方の佐久間大学盛重が守る丸根砦を今川勢の先鋒として攻目滅ぼした砦。
丸根砦の内部砦らしい雰囲気が残っている
丸根砦を守って戦死した兵士の碑
丸根砦の本丸跡
丸根砦跡の石碑
大高城跡。東西106メートル、南北32メートルの山城。室町時代の永正年間に花井備中守により築かれた。
桶狭間合戦時に松平元康(後の徳川家康)が織田方の包囲の中、兵糧を運びいれに成功しそのまま城を守った。義元が討たれた後、今川方撤退後に父祖の城岡崎城に入った。
大高城入り口に立つ石碑
大高城の本丸にある大きな木
空堀のあと
大高城からみた丸根砦
本丸跡に鎮座する、おおきな樹木。おそらく合戦当時もあったかも。
本丸跡は相当ひろい
当時の土塁らしきものが残っている。
桶狭間古戦場の石碑相当古いもの。永禄3年(1560年)5月19日、信長27歳、わずか3000余の手勢を率いて折からの風雨に乗じ25000余の今川勢の本陣を急襲し、義元を倒した。有名な桶狭間の古戦場はこの付近であったと案内看板に書いてあった。
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古戦場跡
古戦場跡には信長、義元の銅像が仲良くならんでいる。この場では少々違和感を覚える。
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今川義元戦死の地の碑
写真の真ん中にある墓石は、田楽坪のねず塚に埋められていて昭和28年偶然に発見された。合戦当時村人が敗軍の将を弔うことをはばかって墓石を埋めてひっそりと供養したものといわれている。
長福寺。天文7年(1538年)善空南立上人により創建された西山浄土宗の寺院。桶狭間の合戦時に、上人は、今川勢が当地に着くと聞くや住民の先導者となり、率先して酒食を提供し、その労をねぎらったと伝えられている。
長福寺境内にある大杉がある。この麓で林阿弥が義元の首実検を命じられた場所。後に供養のため杉を植えた。
首実検のした石碑
境内にある桶狭間合戦供養搭です。
先ほど説明しました境内にある供養杉です。伊勢湾台風で枯れれ2代目だそうです。
長福寺の山門です。
瀬名陣所跡です。今川義元の家臣、瀬名氏俊隊約200名が、先発隊として着陣したところです。ここは織田方の監視の役目と義元が19日に昼食する時の本陣の設営をしたところです。陣所の規模は東西15メートル、南北38メートルであったといわれています。当時の面影はほとんど何も残されていません。
(ここをマウスでダブルクリックして、文章を入力してください。)桶狭間古戦場跡。先ほど見て来た古戦場跡とここにある古戦場2箇所ある。どちらが正解なのか、片方は名古屋市緑区桶狭間、こちらは豊明市栄町南館にある。
案内版によると、この地で義元が戦死したところと伝えられ、田楽、狭間あるいは館狭間といわれた。今川義元、松井宗信無名の人々の塚があり、明和8年(1771年)七石表が、文化6年(1809年)に桶狭間弔古碑が建立された。とある。
高徳院。
高徳院の境内に義元公本陣跡の石碑がある。
七石表(1号碑)です。桶狭間の戦いで今川義元が戦死した場所を示す最も古いものです。明和8年(1771年)尾張藩士により建てられた。
今川義元の墓。ここで戦死した義元の霊が祭られている。以前はここは塚であったが有松の住人山口正義が主唱し明治9年5月にこの墓を建てた。
桶狭間古戦場跡の石碑
曹厳寺。曹源寺ニ世快翁龍喜和尚は、桶狭間の戦いで戦死した戦傷者を収容し介護、戦死者(約2,500人)を各所に葬り引導焼香した
曹厳寺山門です。享保2年(1717年)六世髄了悟叟和尚の時、桶狭間の住人梶野清右衛門の寄進により建立されたもの。市指定の有形文化財。檜の立派な入母屋つくりです。
沓掛城跡。正中2年(1325年)近藤宗光が初代城主。9代目景春の時、信長に謀反した鳴海城主山口左馬助に攻められ落城。今川方に屈した。桶狭間合戦の折には信長はこの城を攻め景春は戦死した。
合戦前後に今川義元が宿泊した城で有名。本丸、堀、二の丸、諏訪丸曲輪が残されている。
空堀跡
本丸跡
土塁跡
空堀跡と土塁跡
沓掛城跡の石碑。本丸跡にある。
空堀跡
諏訪曲輪跡
侍屋敷跡
本丸跡の井戸
井戸の拡大写真
沓掛城の見取り図
古城の雰囲気が残されている

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