桶狭間古戦場を踏査   戻る

2014年2月16日、東海古城研究会主催の「鳴海城址と周辺史跡 そしてふたつの桶狭間」に参加。
当日は鳴海駅に集合しスタート。
鳴海城址、成海神社、丹下砦、善照寺砦、中嶋砦をめぐり、鳴海宿でで昼食。
午後は高根山、釜ヶ谷・信長坂、七ツ塚、緑区桶狭間古戦場公園、戦評の松、
桶狭間新明社、長福寺、瀬名氏俊陣跡、緑区今川義元本陣跡石碑、高徳院、
松井宗信墓、豊明市桶狭間伝承地を踏査した。現地の方の詳しい説明もあり、信長がいかにして義元を打ち破ることができたのか納得。
以下写真の説明文は東海古城研究会の資料を参考にまとめました。

今川義元公本陣跡。
緑区側にある桶狭間合戦時の今川義元の本陣が
あったとされる場所。
実際はこの石碑の東側の高台にあったらしい。
鳴海城址。今川方の拠点。岡部元信が城主。
一説では義元が討たれた後、鳴海城から引かず
主君義元の首と引き換えに」鳴海城を明け渡す事で交渉成立。
信長は清洲城下に晒してあった義元の首を僧侶10人とともに
元信のもとへ送り、信元は首を持ってr駿河へと帰っていった。
人が歩いているところは昔は海。
左側の石垣の上は鳴海城址。
鳴海城の本丸跡
鳴海城の廃材を利用した東福院の山門。
創建は686年草薙神剣が熱田に還座された時に、
日本武尊の縁由により鎮座したと云われる。
桶狭間合戦時にはすでに現在地にあったらしい。
丹下砦、善照寺砦間にあり、織田、今川方が
どのように関与したかは不明。
丹下砦。鳴海城を包囲する砦として築かれた
織田方の砦のひとつ。
規模は東西84メートル、南北78メートル。
砦からは名古屋駅の高層ビル群がよく見える。
善照寺砦。織田方によって築かれた砦。
守将は佐久間信盛、佐久間信直。
信長が丹下の砦に入った時佐々政次、千秋季忠の
二将が手勢300を率いて今川方に攻撃を仕掛けたが討ち死。
善照寺砦は鳴海城と地続きであった。
中嶋砦。信長が築いた砦。善照寺砦から
信長が向かった砦で、この中島砦で
織田家を追放中の前田利家と再会する。
善照寺砦に続き中島砦からも将兵をどこかに出撃させ、
信長は桶狭間に出陣しようとする。
この時家老衆に引き止められたが強引に出撃した。
これが結果的には勝利に導く。
有松絞りで有名な有松宿
高根山。桶狭間合戦時今川軍の松井宗信率いる
約1000名が着陣したところ。
この辺で一番高い山(標高54メートル)で、
鳴海城や織田方の善照寺砦、中島砦を一望できたという。
中島砦を出た信長が義元本陣を前に
兵を潜ませていたという場所。写真右側の空き地。
左側の坂は信長が義元本陣めがけて
駆け上がったとされる信長坂。
七つ塚。
勝利を収めた信長が村人に戦死者を
埋葬するように命じて作らせた塚。
村人は7つの穴を堀り塚を作った。
桶狭間古戦場公園。
名古屋市緑区側の今川義元戦死
の地とされる場所。
桶狭間合戦から450年が経過した
平成22年に信長、義元の銅像他が作られた。
義元の墓。
桶狭間古戦場の碑
戦評の松
今川方の先方隊である瀬名氏俊が
ここに武将たちを集めて戦評定を
行った場所といわれている
桶狭間神明社。
桶狭間合戦時は今川方の先方隊瀬名氏俊が
戦勝祈願した折奉献した酒樽が残されている。
長福寺。桶狭間合戦時、住職は村人ともに酒肴を
今川方の先方隊に献上したという。
また義元の首実験が行われた場所という。
義元、及び今川方の首実験が行われた場所
寺内には放生池という地下水の湧き出る
伝説の池がある。
池中の島には、七福神、竜神、愛染明王、
庚申が安置されている。
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