麓から有料道路を通って観音寺山の9合目の駐車場があり 観音正寺の登り口に到着する。琵琶湖の東岸、標高433メートル の繖山(きぬがさやま)の山頂近くに位置する天台宗の寺。 寺は戦国武将佐々木六角氏の庇護を得て栄えた。しかし信長軍の 攻撃で焼き打ちで全焼。再建されたのは江戸慶長年間。 |
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入り口からまだまだ急な石段を登る。 | |
観音正寺の書院。本堂は平成5年に全焼。 国の重要文化財 千手観音立像が焼失。 |
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屋根に佐々木六角氏の紋(隅立て四つ紋)が付いていた。 | |
観音正寺の脇の細い道を通って 観音寺城へ続く。立派な石垣に圧倒 される。近江源氏の佐々木六角氏の居城。 中世城廓として全国でも最大の規模。 |
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観音寺城観音寺山の南半分に築かれている。 南麓は中山道、西麓は琵琶湖に面し、 水陸交通の要衝地にある。 しっかりした石組み。 こんな高い所に石垣を組むのは 相当な技術が必要だ。 1550年ごろ石垣が整備されたが 1568年、六角承禎が信長の攻撃を受けて、 戦わずに城を放棄し、観音寺城の歴史が終わる。 |
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ここが本丸跡です。 現在確認されている廓は不明。 本丸、平井丸、落合丸、池田丸等の廓が 確認されている。 |
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この時代の石垣は直線に近い組み方。 もう少し時代が経ると曲線になる。 |
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観音寺城の遠景 |
安土城の大手道。 立派な石段が延々と続く。石垣の段差が高い。 老人にはきつい。 |
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石段をかなり登ったところから 後ろを振り返ってみた。見晴らし抜群。 |
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石仏も石段に使われている。 | |
築城当初は石段の上に天主閣が見えたらしい。 | |
信長好みの大きな石組みが至る所に残されている。 | |
信長廟です。 | |
天主閣の礎石址。 ここは地下1階。 1階は石垣の外側。巨大なお城であった。 |
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天主閣から琵琶湖方面を望む。 | |
天主閣へと続く手前に御殿があった。 | |
安土城の見どころの一つ、石垣。 巨大な石組み。 |
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信長好みの大きな石が見られる。 | |
ハ見寺三重の塔。 臨済宗妙心寺派の寺。 安土城築城の際、信長が他所より移築した。 信長自らの菩提寺にしたと伝えられている。 国の重要文化財。 |
近江八幡城下の八幡堀です。 天正13年(1585年)に豊臣秀次(秀吉の甥)が八幡山に 城を築き開町したことに始まります。秀次は、 八幡堀と琵琶湖とを繋ぎ、湖上を往来する船を 城下内に寄港させることで、人、物、情報を集め、 さらに楽市楽座制を実施することで城下を大いに活気づけました。 |
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八幡堀めぐりの遊覧船。 | |
明治10年に八幡東学校として建築された白雲館です。 当時のお金6千円で設立されたもので、貴重な擬洋風建造物です。 |
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近江八幡山頂上の八幡城本丸跡 に建つ村雲御所瑞龍寺です。 開山は関白豊臣秀次公の生母、 瑞龍う院日秀尼公です。 高野山で割腹した我が子 の菩提を弔うため文禄5年(1596)に創建された。 |
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お寺から琵琶湖がきれいに見渡せます。 | |
八幡山城の石垣。標高285mの八幡山山頂にあります。 安土城が落城してから3年後、豊臣秀次(とよとみひでつぐ)が 築いた城です。最頂部に本丸をもうけ、 その南東に二の丸、西に西の丸、北に北の丸、 南西の尾根上一段低く出丸を配置する構造で 、山頂から八の字形に広がる尾根上の小曲輪と 、尾根に挟まれた南斜面中腹に秀次館跡と 家臣団館跡群と思われる曲輪群が階段状に残っています。 |
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最頂部に本丸をもうけ、 その南東に二の丸、西に西の丸、北に北の丸、 南西の尾根上一段低く出丸を配置する構造で 、山頂から八の字形に広がる尾根上の小曲輪と 、尾根に挟まれた南斜面中腹に秀次館跡と 家臣団館跡群と思われる曲輪群が階段状に残っています。 |
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近江商人を代表するの西川家住宅です。重要文化財です。 | |
初代数政から昭和5年11代徳淨が没するまで 約300年間に亘り活躍した。 屋号を大文字屋と称し、蚊帳や畳表などを商って財をなした。 |
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主屋は間口6間半奥行き9間の居室部と 間口2間半奥行き5間の座敷部で構成され、 その造りは京風で統一しており質素のなかにも 洗練された意匠を残している。 |
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三階建て土蔵は、天和年間(1681−1683)の建築で、 全国的にみても珍しく往時の西川家の隆盛をしのばせる。 |
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近江商人の伴家住宅です。 屋号は扇屋で主に畳表、蚊帳を商い豪商となる。 |
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この建物は7代目伴庄右衛門能尹が 文政10年1827から10数年かけて建築した。 |