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龍馬もよく通った木屋町通り。高瀬川に架かる橋。 |
龍馬が暗殺された近江屋址。コンビニになっていた。1867年11月15日、龍馬33歳の誕生日の日の夜、中岡慎太郎とともに襲撃に遭い、この地で命を落とした。 |
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龍馬、中岡慎太郎遭難地跡の石碑 |
岬神社(土佐稲荷)です。室町時代、鴨川の中洲の岬に祠を建てたのが由来。土佐藩邸の京屋敷に移され、土佐稲荷と呼ばれた。土佐藩士はじめ龍馬も詣でていた。.
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土佐藩邸跡です。後ろは旧小学校です。ここに藩邸がありました。 |
高瀬川です。龍馬、勤皇の志士達も通った道。 |
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先斗町です。一説によると先斗とはポルトガル語でponto(先の意味)からきている。正面に見えるのは歌舞練場です。 |
豊臣秀次公の墓がある瑞泉寺です。角倉了以が秀吉の甥秀次一族の菩提を弔うために建立した。秀吉の逆鱗にふれ秀次は切腹、秀次の幼児や妻妾たち39名が三条大橋西畔の河原で死刑に処された。ここに秀次公とそのとき処刑された一族39名の墓がある。 |
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本堂です。 |
これが、秀次一族のお墓。 |
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秀次公のお墓。 |
秀次公の一族一人ひとりのお墓。 |
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一族の墓が整然と並んでいる。お墓は処刑された順に並んでいる。 |
瑞泉寺の表門。豊臣家の家紋、五三の桐のちょうちんが目につく。 |
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三条小橋です。幕末いろいろな場面に登場します。桂小五郎が新撰組に追われてこの橋の下で乞食の格好をして難を逃れたらしい。また、佐久間象山、大村益次郎の遭難碑があります。 |
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武市瑞山(半平太)先生寓居址です。龍馬の遠縁であり勤皇攘夷派の土佐勤皇党を結成した武市瑞山(半平太)が京都滞在の仮住まいとした場所。その後尊王攘夷派は弾圧され、瑞山は1865年に切腹させられる。 |
長州藩邸跡ならびに桂小五郎の銅像です。幕末には尊王攘夷派の拠点となった。維新後藩邸跡は勧業場となり、その後常盤ホテル(京都ホテルオークラの前身)が建てられた。 |
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本能寺本堂です。天正10年に織田信長が明智光秀によって襲撃され、その折、三十余りの宿坊を構えた大伽藍は灰燼に帰した。その後秀吉により現在地に再建された。江戸時代後期に大火により堂宇はことごとく焼失し、現在の本堂は昭和3年に再建された。 |
本能寺の正門。法華宗本門流の大本山。応永22年、日隆上人によって創建された。永享5年に本能寺と名を改め油小路蛸薬師一帯に広大な寺域を得て大伽藍を復興した。 |
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池田屋騒動の址です。居酒屋池田屋にかわっていました。1864年6月5日、近藤勇、沖田総司ら率いる新撰組が尊皇攘夷の志士たちが密会していた旅館池田屋の址です。 |
旅館池田屋は当時長州藩の定宿でした。この騒動のために明治維新が1年遅れたともいわれている。 |
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坂本龍馬寓居となった酢屋です。材木商の代表的存在であった酢屋は、日本のために奔走する竜馬に共感して自宅の一室を海援隊の事務所として提供した。 |
酢屋の2階には坂本龍馬が暮らした部屋が残されている。 |
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龍馬が好んだ鶏料理屋「鳥彌三(とりやさ)です。1788年創業、鶏好きの龍馬も足繁く通ったお店。 |
鳥彌三の正面入り口です。龍馬がいた当時のままの姿を保っている。お品書きを覗くと庶民にはちょっと手が出ないほど高い。 |
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円山公園にある龍馬と中岡慎太郎の銅像 |