近江坂本城及び明智光秀関連史跡を訪ねる

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2010年11月3日 自宅より車で名神高速に入り大津ICで降り、近江神宮を参拝、その後歩いて、宇佐八幡宮とその上にある宇佐山城を目指して急な山を登る。その後再び近江神宮に戻ると、この日は偶々流鏑馬神事が行われる日で見学。その後、光秀関連史跡の坂本城、東南寺、聖衆来迎寺、西教寺を訪問し、帰路は京都東ICから入り、春日井の自宅に帰宅。

                                                         

宇佐八幡宮に通じる道、鬱蒼とした林が歴史を感じさせる。正面には宇佐八幡宮の石碑がある。
「金殿井」説明書きによると、天智天皇がこの地に皇居を定められたおり、ご病気になられた。中臣の金という人が、この井戸の水を汲んで差し上げたところ、病気が回復したとの縁「金殿の井」といわれている。お堂の中の木の格子の枠の中に丸い井戸がある。
長い急な階段を登ると本堂がある。
本堂の脇に創建当寺の礎石が残る。1065年源の頼義公が創建当寺の礎石で、戦乱で表面が焼け爛れている。
宇佐八幡宮の本殿。
本殿の裏山が宇佐山城の登り口です。これから城跡を目指して急な山道を案内看板を頼りに登ります。
道なき道をひたすら頂上を目指して登る。案内看板が頼り。他になにも頼るものはなし。
登ること約30分、やっと頂上に到達。以外や以外、頂上にはNHKの放送棟が鎮座していた。雰囲気が台無し。おまけに宇佐山城の看板とか城の概要看板も無し。歴史上有名なこの城にはせめて簡単な説明版ぐらいあっても良いと思う。
頂上の木に「宇佐山 335メートル」と書いてありました。
城跡らしきものを探してあちこち散策すると、石垣、土塁らしきものが少し残っていた。
頂上から少し下ったところにはやや平坦な場所がある。おそらく曲輪の址であろう。
お城から降りてくると近江神宮に行き当たる。たまたま11月3日で七五三のお祝いで小さい子が親子で参拝している姿が多かった。
近江神宮の本殿、天智天皇を御祀りしている。
この広場で、年一回流鏑馬神事がこの日行われる。
馬場を鎌倉時代の装束で練り歩く。
美しい装束、さすが伝統の美、興奮が高まる。
鎌倉時代に逆行したような雰囲気。
勇ましい馬上の射手、4名、勇ましい武者姿。
先方から一人に射手が馬から矢を的に向かって討つところ。的にあたると観客から歓声があがる。
たずなを話して矢を放つのはなかなか難しいましてや。的に当てるのは至難の業か。
それでも何回かは的にあてる射手もいる。
かなりのスピードで馬が駆けて行くのでシャッタースピードが追いつかない。ピンボケご容赦。
的を射たあと、颯爽と前を向いて駆けていく射手。格好いい。
射手は、赤地又は青地に各々家紋を金糸で表した鎧直垂に射小手を指し、綾檜笠を被り、右腰には矢三本と太刀を帯び、行縢に射沓をはく。右手に重藤の弓を持つ。
射手が矢をつがえてこれから的向かって矢を離すところ
今まさに射手が的の向かって矢を離そうとする瞬間。
射手が放った矢を拾い上げ、射手の渡す矢取
明智光秀が築城した坂本城、今はこの石碑のみが残る。ルイス・フロイスが安土城に並ぶ美しい城と称賛した面影は全く見られない。
琵琶湖に浮かぶ城をイメージしていたがーーーー。
坂本城址公園となっている
東南寺の門、坂本城跡近くにある。延暦年間伝教大師が創立。比叡山の東南戸津ヶ浜にあったので東南寺という。
東南寺の本堂
坂本城落城の際に戦死した将兵を弔う供養搭(首塚)
東南寺のお寺から西に50メートルのところに坂本城址の石碑
聖衆来迎寺の入り口。天台宗の寺院。最澄の創建。坂本城の門を移築した表門がある。
立派な本堂戦国時代織田信長による焼き討ちのときも森蘭丸の父である森可成の墓があったために難を逃れ、優れたを寺宝多く所蔵している。
聖衆来迎寺の客殿、重要文化財で、寛永16年1639頃の建築。
聖衆来迎寺の開山堂で寛永15−16年に建てられた。、
宇佐山城主森可成(よしなり)公の墓、本能寺の変で信長と一緒の死んだ森蘭丸の父
西教寺の総門、天正年間に坂本城主明智光秀が坂本城門をを移築したもの。高さ6.4メートル、幅5.6メートルで、近くによるとかなり大きな門であることがわかる。
西教寺の本堂、天台真盛宗の総本山。聖徳太子が創建し、天智天皇から西教寺の勅願を賜る。
明智光秀とその一族の墓
明智光秀の妻 ?子(ひろこ)の墓(光秀の子女玉子、細川がラシャの妻)
芭蕉が光秀の妻を詠んでいる句
「月さびよ 明智の妻の 咄せう」
本能寺の変、山崎の合戦、坂本城の攻防続く戦乱の中で妻木城主妻木藤右衛門廣忠の兄弟3人が討死した。また一族郎党も多数討死にした。妻木一族の供養搭。
西教寺の客殿。慶長3年11593,
伏見城の旧殿を移築したもの。明治35年に国の重要文化財に指定された。
大本坊。信長の比叡山焼き討ちにより、西教寺が全焼した。坂本城城主の明智光秀が坂本城の陣屋を寄進してこの大本坊を再建した。光秀と光秀婦人の御木像が安置されている。現建物は昭和33年に完成。昭和の建物では滋賀県最大の建造物。東西33.42メートル、南北25.42メートル、面積
257.5坪。
横から見ると建物の大きさが実感できる。
西教寺から琵琶湖を望む

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