佐倉城

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佐倉城は、戦国時代千葉親胤が大叔父にあたる鹿島幹胤に命じて築城を開始。親胤が暗殺されたため工事は中止され、その後も工事が試みられたものの暗殺によって完成することはなかった。だがいつしか築城予定地には鹿島親幹にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになったという。

1610年(慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、佐倉城が完成した。江戸時代に佐倉藩の藩庁が置かれた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、なおかつ初期は城主の入れ替わりが多く、江戸初期に城主であった堀田正信の弟・堀田正俊の孫・堀田正亮が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、安定した藩の経営を行っている。

城郭は比較的質素で石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼の外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としている。このようなケースは関東地方を領した、要衝を預かる城郭を除き、川越城や古河城などの譜代各藩の城にみられた。(ウィキペディアより)

佐倉城址公園の入り口、国立民族歴史博物館に続く道路。
佐倉城内二の丸跡
広大な敷地自然の勾配をうまく利用して城割ができている
幕末老中として活躍した堀田正俊の銅像。確か老中に登用されたのは30歳以下。
本丸の土塁跡、石垣を用いないで土塁で囲んでいる。
佐倉城築城時に植栽されたモッコクの巨木。天然記念物。
本丸跡、遠方に見えるは土塁。
先ほどの築城時からあったのモッコクの全景。
樹高 11.6m  目通り幹囲 2.6m
帯曲輪址。帯状に細長く城のまわりを囲む曲輪で、その用途は敵が城の
根方から攻撃し、帯曲輪までよじ登ってきたとき、武者走りにあらかじめ用意
していた石材、木材などを投げ落とし反撃するために設けたもの。
江戸時代初期の古城の雰囲気が考えられる。
佐倉城此の唯一の遺構。城内にあった門。市内酒造家土井家の表門として
使用されていたが昭和58年この地に復元されたももの。
佐倉城の大手門址