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伝承によれば、鎌倉時代に創建。荒廃していたのを1511年(永正8年)に斎藤利匡の手で移転整備。1517年(永正14年)に改称したという。
別の説としては、1469年(文明元年)に、土岐成頼と斎藤長弘が建立し、1493年(明応2年)に開山したという。
1567年(永禄10年)、織田信長がが岐阜に入ると、崇福寺は織田家菩提寺となる。
1582年(天正10年)、本能寺の変により織田信長と職田信忠が亡くなると、二人の遺品は側室のお鍋の手で岐阜城から崇福寺に持ち込まれ、
織田信長・信忠廟所に埋められたという。1600年(慶長5年)、職田信秀は石田三成の挙兵に呼応し、関ヶ原の戦いの前哨戦で岐阜城に立てこもるが、
福島正則や池田輝政らに攻められて落城する。岐阜城が廃城後、崇福寺は岐阜城天守の床板を譲り受け、この戦いで戦死した38名の武将を弔う為に本堂の天井板に使用する。江戸時代には朱印地となり保護を受け繁栄する。また、有栖川宮の祈願所となる。春日局と関係があることから、徳川家光は特に保護をしていたという。
崇福寺の門前です。寺の敷地の広さが想像される。 | |
職田信長、信忠の廟の案内 | |
崇福寺門前にかなり古い職田信長公霊廟所の石碑 | |
門前からまっすぐ歩いていくと立派な門が見えてくる | |
門をくぐると手入れの行き届いた庭木に 迎えられて、石だたみがまっすぐ続く。 |
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境内には稲葉一鉄寄贈の梵鐘がある。 | |
これが寄贈の梵鐘。 | |
境内にはチリひとつ落ちていない。 踏査に来た日もおばさんが庭の草取りをしていた。 |