家康の母(於大の方)にまつわる史跡 乾坤院、緒川城、洞雲院、阿久比城を訪ねる

 2010年6月11日 家康の母(於大の方)の父水野忠政公の菩提寺 乾坤院、於大の方の生まれた緒川城、於大の方の再婚相手となった久松俊勝家の菩提寺洞雲院と一緒に暮らした阿久比城他を訪れました。


水野家の菩提寺 乾坤院です。1475年(文明7)に初代城主水野貞守(みずのさだもり)が創建した寺である。戦国時代,水野氏は東は知立から西は常滑の地を支配下に置き,強大な勢力をふるっていた。
 1533年(天文2),水野氏は新しく刈谷にも亀城と呼ばれる城を構え,尾張・三河両国ににらみをきかせることになった。1541年(天文10),水野忠政の娘於大(おだい)は岡崎の松平広忠(ひろただ)と結婚。水野氏とつながることによって松平氏は身の安全を図る,いわゆる政略結婚であった。翌年,於大は竹千代(後の徳川家康)を産んでいる。その後,水野氏は織田に接近し,松平に対しても親今川を改めて織田につくよう説得を試みるが,受け入れられなかった。松平広忠はついに於大との離縁を決意し,於大は刈谷城に帰されてしまうことになる。その後,水野氏は,佐久間(さくま)氏のざん訴により信長の怒りに触れ,無惨な最期を遂げてしまう。
総門をくぐると池に橋がかかっており,きれいな睡蓮の花が咲いていた。
堅雄堂です。1670年(寛文10)岡崎城主水野忠善が先祖供養と中興の祖水野忠政を顕彰するために建立した。
ここ堅雄堂の敷地内には水野家4代の墓所がある。これは水野忠政公の墓。
これは水野忠守公(忠政の子)の墓。 水野忠政には3人の子供があり、長男は信元、次男が忠守、三番目は於大の方である。
これは水野忠元公(忠守の子)の墓
これは水野忠善公(忠元の子)の墓
(ここをマウスでダブルクリックして、文章を入力してください。)
乾坤院の山門です。一説では緒川城の総門を移築したと言われております。
緒川城跡です。水野貞守が文明年間(1469-1486)に築城した。以来約130年間水野氏の居城。
この場所は車でいけません。東浦町役場から狭い道を歩いてやっと見つけることができました。
現地までの誘導看板があればと痛感した。
緒川城の櫓台跡。城跡の周囲は三方が山地形で東側は急な崖になっている。土塁と塀に囲まれた大小の曲輪があった。中でも主曲輪は東西83メートル、南北95メートルの大きなものであった。今は想像すら出来ない。
城跡の東側にわずかに残る土塁のようなものがある。
村木砦。天文年間(1532〜55)の頃、今川氏が緒川城の水野氏に備えて築いた砦。
洞雲院。於大の方の菩提所です。明応3年(1494)久松定益が再建。天文16年(1547)於大の方が久松俊勝のもとに再稼。阿久比在城15年間に3男4女計7人を出産。後に桑名城主、松山城主をはじめ多くの大名、旗本を世に出した。ここに、於大の方の墓の他、夫の久松俊勝、定益、定勝(定益の子)の墓がある。
於大の方の墓。ここに於大の遺髪も埋められいているらしい。葵のご紋のついた立派な石組みの中に五輪の搭がある。
於大の夫久松利勝のお墓。於大の墓の右隣のある。立派な石組みですが、何故か於大の石組みより少々小さい。
阿久比(坂部)城跡。久松定益が築城したと言われる平城で、当時は阿古屋城、阿久居城とも呼ばれた。於大の方が久松俊勝に再稼しここで俊勝が岡崎城代として移るまで15年間在城した。その間、熱田や駿府で人質の身であった家康に、励ましの手紙や衣類を送り続け、後に徳川家康の運命や人間形成に大きな影響を与えたと言われている。
桶狭間の戦いを控えた永禄3年(1560)5月17日於大の方と家康はこの地で母子が16年ぶりの感激の再会を果たした。
天正5年(1577)佐久間信盛におとしいれられ、城主の久松信俊(俊勝の長男)は大阪四天王寺にて切腹させられた。この城は、信盛の手勢によって攻められ、炎上落城したと伝えられている。

麓から、坂道を登ると平らな広場に出る。
ここがおそらく主曲輪の跡と思われる。
空堀の雰囲気が感じられる。

次ページ    TOPPAGEへ