刈谷城、安祥城、椎の木屋敷、楞巌寺を訪ねる


  2010年6月9日 於大の実家である水野家の歴史を探る史跡を巡る。


刈谷城跡。1533年水野忠政が築き、忠政の娘於大の方〔家康の母〕が育った城である。1
541年「於大の方」は岡崎城主広忠の正室となり、1542年岡崎城で竹千代が生まれる。
1543年忠政が亡くなると、信元が継ぎ、今川から織田方へ与する。このことで広忠は、織田方となった水野家「於大の方」と離縁することになる。1575年信元は武田方との内通を疑われ、信長の命により、家康の家臣石川数正、平岩親吉に大樹寺で嫡子信政と共に殺害された。代わりに佐久間信盛が入るが、1580年信長に追放され、信元の弟忠重〔於大の弟〕が入る。1582年「本能寺の変」で信長が討たれると、忠重は秀吉に仕え、1590年伊勢神戸城へ移るが、1594年刈谷へ帰城。秀吉が亡くなると、家康に仕えたが、1600年加賀井弥八郎によって殺害され、その子勝成が家督を継いだ。その後、1616年勝成の弟忠清、1632年深溝松平忠房、1649年久松平定政、1651年稲垣重綱−重昭−重富、1702年阿部正春、1710年本多忠良、1712年三浦明敬−明喬−義理と続いた。1747土井利信が入り、利徳−利制−利謙−利以−利行−利祐−利善−利教で明治を迎える。現在は亀城公園に変わり、曲輪、土塁、水堀が残る。

大きな堀に赤い欄干が美しい。
今は亀城公園となっている。
広大な敷地であったことが偲ばれる。
本丸への続く石段
ここが本丸跡
本丸跡です。
微かに昔を偲ばせる古びた石段があります。
春は桜がきれいなところだそうです。
刈谷城から歩いてすぐに椎の木屋敷跡があります。椎の木が数多く茂り、いつの代からか椎の木屋敷と呼ばれていた。藩政期には霊地として一般の人の出入は禁じられ中央に五輪塔が数基あったという。
 初代の刈谷城主水野忠政のむすめである於大の方が岡崎城主松平広忠に嫁いで竹千代(家康の幼名)を生み、のち離縁になって刈谷に帰されこの地に住んだ。
昔を偲ばせる大きな椎の木がありました。
屋敷跡地には於大の方の石像がありました。
ここが刈谷城の三の丸跡地です。現在歴史博物館になっています。
楞巌寺。遠州浜松普済寺(ふさいじ)の利山和尚が,1413年(応永20)に開いたとされる曹洞宗の寺である。初代刈谷城主水野忠政(ただまさ)は,この寺に帰依し,以後水野家の菩提寺となった。岡崎城主松平広忠(ひろただ)は,東に今川義元,西に織田信長が迫り,情勢はとても厳しかった。広忠はそこで刈谷城主水野忠政の娘の於大(おだい)と結婚,この連携によって独立の維持を図った。この結婚は「国中大方敵に成り,岡崎一城に成り申し」という苦境に立たされたことによる政略結婚だった。広忠と於大との間に,1543年(天文12)竹千代(後の家康)が誕生したが,その後さらなる政略で離別することとなった。刈谷に帰った傷心の於大はたびたび参詣したという。於大が阿久比に嫁ぐとき,思い出の品をこの寺に納めたと言われている。
境内はかなり広い敷地。禅寺らしく白い砂と岩のバランスが絶妙である。
安祥城跡。文明3年(1471)ころ、岩津城の松平信光が謀略を用いて、攻め取り、無血入城しました。以後50余年間、安城松平四代(親忠・長親・信忠・清康)の居城となりました。大永4年(1524)、松平清康が岡崎城に本拠を移すと、長家(清康の祖父・長親の弟)が城代をつとめました。しかし、清康が殺されて「守山崩れ」になった後、桜井松平信定は、次期当主の広忠を追い出し、実権を握りましたが、家臣団の支持が得られませんでした。
 天文6年(1537)、広忠は岡崎城へ帰ることができましたが、松平氏は弱体化し、この機に織田信秀は天文9年(1540)にこの安祥城を奪い取りました。信秀は、安祥城に城代として、織田信広(信長の庶兄)を置きましたが、これもまた今川・松平連合軍の攻撃によって落城し、織田信広・松平竹千代(後の徳川家康)の人質交換を経て、今川の将が城を預かることになります。
 永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川が撤退すると、水野信元らの勧めをもって、信長・家康の「清洲同盟」が結ばれました。
 これにより安祥城は廃城、松平・織田・今川の西三河前線基地攻防の地としての歴史を閉じました。
安祥城の本丸を望む
当時の土手跡らしきものが残っていました。
大乗寺。ここが本丸跡。安城松平四代城主の位牌が安置されています
八幡社。ここが二の丸跡。

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