末森城から熱田・家康幽閉地跡を巡る       2010年6月4日現地踏査

末盛城は天文16年(1547)織田信長公の父信秀公が築城し、古渡城から移り住んだ。信長は那古野城を譲られた。
現在、本丸の一帯が城山八幡宮の境内となっている。住宅と大学に挟まれたところにこんもりとした森があり、森の中には空堀が今でも見事に残っている。 中世の城跡の面影をよく残している。

正面の鳥居をくぐり階段を登ると城山八幡宮の本殿(末森城の本丸跡)にたどり着く。
正面のこんもりとした森全体が城跡。
いまでもはっきりと空堀の跡を確認できる。相当大きな規模と思われる。
末森城跡の石碑、本丸跡に立っています。
ここは二の丸跡です。現在は大学の寮跡のようでした。
連理木(れんりぼく)と呼ばれており、自生のアベマキで幹周り3.53メートル、根回り4.30メートル,
樹高15メートルで名古屋市内最大とのこと。地上3メートルから二幹に分かれ再び合一して連理となっている。夫婦円満・縁結びの御神木である。
遠方に見えるうっそうとした森が末森城跡で、周りは住宅地に囲まれている。たまたま近くのおっさんと話をすると、ここが末森城跡と知っている人が少ないとのこと。信長の父が築城した立派なお城なのにもっとPRしたほうがいいのではと感じた。
ここが本丸跡です。相当広い敷地で、当時の城の規模が想像できる。 城は標高43メートル、東西約200メートル、南北約160メートルの平山城で、二重堀をめぐらしていた。名古屋市内ではもっともよく戦国期の状態が残る城址として知られ、現在も殆ど原形に近い姿を伝えている。
当時を偲ばせる空堀  
   
熱田の宮から家康(竹千代)幽閉地へ   2010年6月4日 現地踏査  
   
熱田宮の渡し跡です。江戸時代、東海道の宿駅であった熱田は、「宮」とも呼ばれ、
桑名までの海路「七里の渡し」の船着場としても栄えていた。寛永2年(1625)に建てられた常夜灯は航行する舟の貴重な目標であったが現在は復元されて往時の名残をとどめている。
時の鐘です。
旧東海道にあった道標です。ここ熱田伝馬町の西端は江戸時代、東海道と美濃路の分岐点であった。この道標は建立当時(1790年)そのままの状態で残されている。
旧東海道です。
旧東海道の伝馬町の東西の筋から二本南の道路沿いに、徳川家康が幼少の頃、幽閉されていたところ。
熱田の豪族であった加藤図書助(ずしょのすけ)順盛(よしもり)の屋敷跡である。現在、かなりの敷地を持つ屋敷の塀内に案内標識が建てられている。
天文16年(1547)松平竹千代(後の徳川家康)6歳のとき、今川家へ人質として差し出される途中に、田原の領主戸田康光にあざむかれ尾張の織田信秀のもとに送られた。このとき織田信秀の命により竹千代を預かり育てたのが加藤順盛である。
小説では、「六尺棒をかかえた足軽が二人、門を固めているだけで、物々しさはどこにもない。低い築地塀をめぐらして、庭はさびた木立になっている。楠、椎が多くーーー」と記述されている。現在は、屋敷全体が木々に覆われており、相当広いお屋敷であったことが伺える。

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