田原城は、文明12年(1480)頃、戸田宗光によって、築城。周りを海に囲まれた堅固な城で湾の形が巴形になっていたところから、 |
2010年10月2日 踏査 TOPPAGE
田原城は、文明12年(1480)頃、戸田宗光によって、築城。周りを海に囲まれた堅固な城で湾の形が巴形になっていたところから、 |
吉田城は最初今橋城とよばれ今川方の牧野古白によって築城された。
牧野氏は一色城(豊川市牛久保)を本拠として今川氏の幕下にあった豪族である。
吉田城攻防の歴史
その後、近隣の豪族との抗争を繰り返し、天文十五年 (1546)になって今川義元が城代を置いた。義元が桶狭間で戦死すると、徳川家 康が吉田城を取り、酒井忠次を入れた。天正十八年(1 590)家康が関東に入ると池田輝正が十五万二千石で入封し、豊川を背にして 本丸を中心に二の丸・三の丸を配置し、それが掘を同心円 状に取り囲む半円郭式縄張りに拡張した。 しかし、慶長五年(1600)に姫路 に移封となったため、工事は未完に終り、代わって入った竹 谷松平氏は三万石の石高であったため、大城郭の計画は実現しなかった。 その後、深溝松平・水野・小笠原・久世・牧野・大河内松平氏と 代わり明治に至った。
吉田城には天守閣はなく、深溝松平時代に建てられた本丸御殿が宝永の大地震で倒壊するまでここにあった。四隅の石垣には櫓があっ たが現在では北西石垣上に昭和二十九年(1954)に鉄櫓と石塁・堀・本丸城郭が残っている。
田原城の石垣、昔の雰囲気がよく残されている。 | |
石垣から突き出ている太い木、生命力の強さを感じる | |
二の丸櫓、 | |
田原城のお堀 | |
桜門です。 | |
幕末の田原藩家老渡辺崋山の銅像 | |
蛮社の獄で渡辺崋山が蟄居していた家、ここで自刃した。 |
吉田城本丸御殿跡、昭和29年に再建された鉄櫓が 外装工事中のため、撮影しませんでした。今年中は見れません。 |
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吉田城全体模型 | |
櫓に続く急な階段、結構きついのぼりより下りが怖い | |
空堀跡 |