田原城、吉田城を訪ねる2010年10月2日 踏査                     TOPPAGE

田原城は、文明12年(1480)頃、戸田宗光によって、築城。周りを海に囲まれた堅固な城で湾の形が巴形になっていたところから、
”巴江城”とも呼ばれ、寛文4年(1664)、三宅康勝が拝領し、以来三宅家の居城として明治維新をむかえた。

田原城攻防の歴史
 初代・戸田宗光から数えて五代目の堯光の時代に、今川方に送られる途中の松平竹千代(徳川家康)を奪って、織田方に送った  事件があり、この事件に怒った今川義元は田原城を攻め、激戦ののち落城。四代・宗光と五代・堯光は共に討ち死に。この時、宗 光の弟・光忠は宗光の首を抱いて、我が子・忠次と共に城を脱出。山越しに落ち延びて、野田村の西圓寺にたどり着き、住職に首 を預けて宗光の供養を頼んだ。
 落城により城主は今川氏に替わり、その後、今川氏の城代が四代続きましたが、今度は永禄8年(1565)徳川家康が攻めて 落城 。田原城は徳川方の所有となった。徳川方の4人目の城主に、伊豆の下田から戸田氏(四代宗光の弟・光忠の孫・尊次  )が国替 えになり、城主として返り咲く。戸田氏が三代続いた後、寛文4年(1664)三宅家に替わり、明治まで実に十二代、二百年の間三宅  家が藩主として続く。

吉田城は最初今橋城とよばれ今川方の牧野古白によって築城された。
 牧野氏は一色城(豊川市牛久保)を本拠として今川氏の幕下にあった豪族である。
吉田城攻防の歴史
 その後、近隣の豪族との抗争を繰り返し、天文十五年 (1546)になって今川義元が城代を置いた。義元が桶狭間で戦死すると、徳川家 康が吉田城を取り、酒井忠次を入れた。天正十八年(1 590)家康が関東に入ると池田輝正が十五万二千石で入封し、豊川を背にして  本丸を中心に二の丸・三の丸を配置し、それが掘を同心円 状に取り囲む半円郭式縄張りに拡張した。 しかし、慶長五年(1600)に姫路 に移封となったため、工事は未完に終り、代わって入った竹 谷松平氏は三万石の石高であったため、大城郭の計画は実現しなかった。  その後、深溝松平・水野・小笠原・久世・牧野・大河内松平氏と 代わり明治に至った。
 吉田城には天守閣はなく、深溝松平時代に建てられた本丸御殿が宝永の大地震で倒壊するまでここにあった。四隅の石垣には櫓があっ  たが現在では北西石垣上に昭和二十九年(1954)に鉄櫓と石塁・堀・本丸城郭が残っている。

田原城の石垣、昔の雰囲気がよく残されている。
石垣から突き出ている太い木、生命力の強さを感じる
二の丸櫓、
田原城のお堀
桜門です。
幕末の田原藩家老渡辺崋山の銅像
蛮社の獄で渡辺崋山が蟄居していた家、ここで自刃した。
吉田城本丸御殿跡、昭和29年に再建された鉄櫓が
外装工事中のため、撮影しませんでした。今年中は見れません。
吉田城全体模型
櫓に続く急な階段、結構きついのぼりより下りが怖い
空堀跡