家康誕生の岡崎城から家康の関係史跡を巡ります

  2010年6月1日 自宅の高蔵寺を車で出発。約50分で岡崎城に到着。第1巻に登場する史跡を巡ります。
  

岡崎城の大手門です。これより城内に入ります。立派な大手門です。
江戸城の大手門に似てます。家康誕生当時はおそらくこんな立派な
門ではなかったのでは。小説「徳川家康」によると、大手多門はケタ八間四尺、ハリ行二間四尺とあります。
岡崎城の期限は15世紀前半、明大寺町の地に西郷頼嗣により築城
されたのが始まり。その後、1531年に松平清康(家康の祖父)が現在
の位置に移したのが岡崎城となる。
天文11年12月26日、家康は岡崎城内で誕生した。
家康の祖父清康は25歳で家臣に殺される(守山崩れ)が、八幡曲輪(本丸)、二の丸、持仏堂曲輪、三の丸を造り、城内侍屋敷158軒、侍長屋12棟、足軽小屋451軒、足軽中間長屋34棟、26ヶ所の井戸を整備したと、小説には記述されている。
これは、二の丸にあったと思われる井戸跡。
昔の面影を残している堀跡。
いよいよ本丸が見えてきました。
本丸正面左側に山岡荘八著「徳川家康」の第1巻の冒頭部分の語句が書いてありました。

「武田信玄は二十一歳。上杉謙信は十二歳。織田信長は八歳。」
亀の背中に有名な家康の遺訓が書いてありました。
家康が生まれた時に使用した井戸。立派な葵の門の入った石組みで
囲まれた井戸です。

この場所は昔家来の館跡にあったため通常の観光コースから外れているため、判りにくい。
二の丸広場に徳川家康像が立っておりました。
昔の石垣が所々残っておりました。。
堀の跡でしょうか。堀が相当深そう。
家康が誕生した時に、家康の胞衣(えな)を埋めたところだそうです。
家康の家臣 板谷邸門跡です。家康はこの家で生まれたそうです。
大樹寺の山門です。三代将軍家光公が建立した。境内から山門、総門をとをして、その真ん中に岡崎城が見えた。
本道の屋根の鬼瓦には葵の紋が輝いておりました。本堂内には家康
公木像が安置されていた。将軍御成りの間には冷泉為恭(ためちか)の襖絵が多数ある。また、松平八代・徳川歴代将軍の14代の位牌が等身大で作られている。
本堂です。
山門を通して遠方に岡崎城が見えます。創建以来370年近くこの眺望をさえぎる建物がないように配慮されたことはすばらしい。
山門を横から見たところです。
多宝塔です。松平清康公(家康の祖父)が1535年に建立した。国の重要文化財に指定されている。
松平初代親氏の墓  
松平八代 広忠の墓
鐘楼です。三代将軍家光公が建立した。
家康の母 伝通院(於大の方)が創立。於大の方が懐妊したときに命によりて名僧と謳われた俊恵蔵主が登城して持佛堂薬師如来宝前において日々安産の祈願をした。

家康の無事な誕生によって城の東北の一部を草創し、城の持佛堂の薬師如来を本尊とし十三佛一軸、紋付打敷幕ちょう灯を寄進して大仙寺としました。

慶長6年(1602年)徳川家康より朱印5石を与えられ、このとき書状に大仙寺を大泉寺と書かれていたので、それ以来大泉寺と記すようになったそうです。
裏山を登って行く。
一番高いところに伝通院(於大の方)の墓があります。意外とわびしい墓であります。

六所神社は家康公の産土神として、代々徳川家の崇敬が篤い。現在の社殿は寛永十一年(1634年)から寛永十三年にかけて三代将軍家光公が再建した。
本殿・幣殿・拝殿・神供所・楼門が重要文化財に指定されています。

安産の神様として親しまれている。

立派な楼門です。4代将軍家綱公が寄進したと伝えられている。急な階段に注意!
本殿です。
本殿を横から眺めたところ。鮮やかな朱色と彫刻が見事です。
「三河一向一揆に手を焼いた家康は、浄珠院に本陣を置き、一揆制圧のため、自ら指揮をとりました。昨日の家臣は今日は敵。きっと家康は、つらい気持ちで戦ったに違いありません。戦闘は永禄6年(1563)10月に始まり、永禄7年1月、土呂本宗寺・針崎勝鬘寺は上和田砦や勝鬘寺で家康方と衝突し、2月になって一揆方の家康家臣から和議が提案され、和議が成立し、家康は三河統一の基礎を固めることになりました。一揆制圧のために自ら指揮をとりました。」とガイドに書いてあります。
三河・三木城跡
松平宗家6代信忠の次男信孝が三木が初代城主。宗家7代清康没後、信孝が宗家を脅かす存在になった為、騙して知行と屋敷を没収した。これを不服として織田信秀に与して、岡崎城へ出陣したが戦死する。2代重忠は広忠、家康に仕えたが3代忠清に嫡子なく断絶した。








現在は畑で、城らしきものは何も残されていない。




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